しゃなたそ2月卓を振り返る②1901秋
1、東欧三国同盟の仕掛け
1901秋の行軍では、いかにトルコを増設無しに持ち込むかで、一悶着あった。
そもそもトルコを増設無しに追い込むためには、東欧三国同盟の結果のcon→aegを実現する必要があったが、トルコがアルメニア進軍を決行した。
確かに、まだお互いの腹のうちが見えてない段階では、トルコの基本姿勢としての対露は間違いではないため、アルメニア進軍は悪くないのかもしれない。
しかし通告なしの(普通通告はしないだろうが)アルメニア進軍はロシアとしてはトルコへの不信感の増大に繋がり、結果としてこれもロシアの墺頼みの度合いが高まってしまった。
結果的に、トルコ憎しの感情を飲み込んで、東欧三国同盟の提案をしていたが、ここでもギリシアSOの提案がトルコからなされるなど、具体の行軍が決まるのはかなりギリギリになってしまった。結果的にロシアから墺のブルガリア占領を認めることにしたが、後の墺の奇策提案もあり、トルコ領を削るのは墺だけになるという形になる準備を手伝ってしまったかもしれない。
もっとも、せっかくアルメニア進軍を果たしたのであれば、トルコはそのまま対露路線をキープでもよかったのではないか・・・と思わなくもないが。(実際墺の外交によってはロシアは今季黒海とルーマニアを失う可能性もあったのだし)
2、イタリアとの不仲の始まり
墺伊の外交がどう展開していたのかはわからないが、おそらくは墺伊関係はかなり良好だったのではないかと終了時の今なら推測できる。
イタリア、オーストリアの間は空白化に成功し、かつ仏攻めも明らかにしているイタリアから、この段階からロシアの北上への懸念が表明されていたのは、ある種不自然であり、反面納得できるものである。(ここについては年がたってからの方が書きやすいため、今はそうだと言及するにとどめておく。)
一方で、トルコ憎し、まずは墺との長期同盟を基軸に外交を考えていたロシアとしては、単純に対墺に向かうことを支持するイタリアへの反感は高まり、かつイタリアが対墺や対トルコに向かわないことへの苛立ちものちに出てくることとなった。
友達の友達が友達にならない、この関係を生み出す点でも墺はうまく立ち回っていたと考える。
3、stp増設問題
ロシアは今季Stp増設(しか土地が開かないこと)を英独に通告し、理解してもらっているが、ドイツからの海軍増設要請もあったことから、ここは北岸海軍を増設してもよかったのかもしれない。(実際、その後の行軍を見ても、これが海軍であれば露の北欧経営はよりスムーズに行ったと予想される。)
当時としては、墺の早期裏切りも予想しての陸軍増設判断だったが、大きな利益のためには同盟への強い意思が必要であることを考えると、ここは海軍増設をして、完全に墺に背中を預けるぐらいの方が、国力増加レースで墺より2歩先を歩めたかもしれない。
全体的に、当国はリスクを取りに行く選択を避けており、その積み重ねが国力増加スピードの減退を招いていたのかもしれないのは、この卓の反省事項である。